これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル Michael J. Sandel 鬼澤 忍
ドラッカーのマネジメントでは、社会という器があっての企業というようなことが書いてありましたが、
この本では、社会(コミュニティ)があっての正義だというようなことが書いてありました。
私はある人の息子や娘であり、別の人の従兄弟や祖父である。私はこの都市、あるいはあの都市の市民であり、ある同業組合や、業界の一員だ。私はこの部族、あの民族、その国民に属する。したがって、私にとってよいことはそうした役割を生きる人にとって善であるはずだ。そのようなものとして、私は自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去からのさまざまな負債、遺産、正当な期待、責務を受け継いでいる。それらは、私の人生に与えられたものであり、私の道徳的出発点となる。
ここはとても印象に残りました。
日本人であることや、私につながる家系は、私の存在の前提条件みたいなものなのですね。
自分が直接関係していないことでも、それが現在の器を作り出しているので、それを離れて存在すると無理が生じるような気もします。
ま、あんまり考えすぎると負債ばかり眼が行って押しつぶされそうなので(笑)
とりあえず、読んでる間は一生懸命正義を考えてみたので、
これからは、論理的なものより直感的、感覚的な感じで行きたいとます(爆)
途中とても難しい部分もありましたが、たまにはいいかもしれないなーと思いました。
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ハーバード白熱教室@東京大学が先日放送されていましたが
(以下は、個人的な感想で誹謗中傷の意図はまったくありません)
ちょっと気になったのは、「過去の戦争責任を現在の世代が負うべきか」というディスカッションの中で
「負うべきだ!」と、前のほうに座っていた男の子が、
サンデル教授の指名を受け持論を述べたのですが・・・確かに理論的にはなるほどと思うけど
押し付けるような高圧的な態度のように見えて・・・あまり謙虚さというものが感じられませんでした。
ま、ディベートですからね。
論理的に相手がぐうの音も出ないように言い負かすというのが、ディベートなんでしょうけど
彼は本当にそんな状況になった時に、相手がそれに乗じて無理難題まで要求してきてもそれを受け入れられるのか・・・
と考えると、また話は違うのかなぁと思いました。
逆に「たとえ親が犯罪者でも、子供は何の権利も制限されてはいけない」といっていた、
後ろのほうにいた男の子は、とても謙虚で
もしそんな状況になった時、かれはむしろ法的な責任はなくても道義的責任を果たすんじゃないのかなーとも感じました。
正義を思考すること、それを実践するのは全然違うものなのでしょうね。
そんなことをハーバード白熱教室@東京大学みて感じました。
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